Log of a Hypocrite

偽善者

『ヨブ記』についてのメモ

ヨブ記』は旧約聖書に収められている物語のひとつであり、内容としては「神が信心深く裕福な暮らしをしていたヨブに非常に、非常に厳しい試練を与える」というものである。その内容は壮絶なもので、そこまでやるのか?という仕打ちがヨブを襲う。

しかしその内容が意味するのは神の全能性のような安易なものではなく、あくまでユダヤ教徒(+キリスト教徒)に対する信仰の問題である。

物語の中でヨブは「なぜ神はこのような仕打ちをするのか?」と幾度となく悩む。しかし38章からの神の返答は厳しいものだった。

わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。 ヨブ記38:4

それからというもの、神の厳しい返答が40章まで続く。それにヨブはこう答えた。

わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません。 ヨブ記40:4,5

また42章にも

あなたは全能であり御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。…あなたのことを、耳にはしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。 ヨブ記42:2~5,6

というように、完全な服従と言っていいような態度をヨブはとっている。ユダヤ教徒キリスト者でない者からすると(ひょっとしてその二者も)かなり神はサディストのように感じられるが、冒頭で言ったように要点はそこではない。この物語は最終的にヨブが神を信じる事を諦めて終わるのではなく、神を信じ続けて終わるのだ。最後の最後でヨブは救済されるのだが(ヨブ記42:12~17)、全く報われずともそこまで信じ続けたヨブの信心が最も重要なのだ。同じような事は新約聖書におけるイエスの受難の物語にも共通している。マルコによる福音書ルカによる福音書ではイエスは絶叫し、十字架から自分を降ろしてくれなかった神になぜなのか、と問うて絶命する。しかしそれまでのイエスの行動や人物から察するに、なぜなのかと問うている間も神に対する信仰心は持ち続けていたであろう。そしてその後に復活する……。

結局何が言いたいのかというと、「救われなさ」それ自体にこの物語の全ての意味がかかっているのだと思う。人智をはるかに超越した神の意味不明な行動、それでもなお神を信じる。それを経た結果として救済は待っている。信じ続ける。信心なくして救済はあり得ない。先述した神に対するヨブの悩みは「信じている神に対して疑問を持つ事は愚かであり、そんなことを考える暇があったら信じなさい」というようにとれる。そういった「人は信仰によって義とされる」的メッセージをこの物語は伝えたかったのではないだろうか。

 

また、物語中にヨブは「生まれてこなければよかった」というような事を度々言うのだが、同じような事をイエスはユダに対して「お前は生まれてこないほうがよかった」という感じで伝えている。その関連性についての疑問が生まれたので、今後はそれについて調べたいと思う。