Log of a Hypocrite

偽善者

今日の話

成人式に行ってきた。行って善になりうる事は一切ないとわかっていても、成人式は当然行くものだという親の圧力に抵抗しても無益だと思い行ってきた。市長など偉い人が挨拶をするなかヤジを飛ばすようなアホはどこにでもいる。知ってたよ。

式の間は今でも未だに交流のある(ありがたいことですね)男ふたりのとなりに座っていたのだが、式が終わると彼らは部活の食事会ということで会場を離れるとの事だった。自分はというもの、しばし人間観察をしたのちに会場からやや遠い駅まで歩いて帰宅した。ロクに他人との交流はなかった。

昼前に早々と帰宅した時の父親の表情はもう覚えていない。速攻でスーツを脱いでスウェットとパーカーを着、整髪料が枕につかないようタオルを敷いて寝た。寝ていると近所に住む祖母が訪ねてきて成人おめでとう、といって二万円をくれた。どうだった?と聞かれて、両親もその場にいるというのに寝起きのせいで正直に「別に……行かなくてもよかったかな」と答えた。気まずい空気に耐えかね礼を言いそそくさと部屋に戻ってしばらく天井を見たのちにこの文章を書いている。さっき書いた受け答えが今日一番、何よりも自分を苦しめている。言っちゃったね

Dionisyan - The Mystery of Faith

前々からディスクレビューというのをやってみたかったんですが、自分が聴くようなやつはすでにレビューが為されている事が多かったので辟易していました。しかし今回たまたま買ったCDは日本語で書かれたレビューがなさそうなので書いてみます。

 

イタリアの(フューネラル)ドゥームメタルの2014年作1stアルバム。ジャケットだけ見ると90年代っぽさがプンプンしますが2014年作です。ジャケとタイトルから分かるように宗教っぽさ全開です。歌詞は見てないんですが、曲名が全部キリスト教関連っぽいのでそういうことだと思います。肝心のサウンドの方も実に荘厳であり、聖歌のような女声コーラスがいい具合にガテラルヴォーカルと重苦しい楽器隊に絡んできます。(ヴォーカルはWorshipぽい感じです。というかサウンドもWorshipにElendを足した感じ?)そしてアコギのパートもありと、ブラックメタルに慣れた耳でもすんなり入ってくる退廃的サウンドが素敵です。EL Worship

個人的な一押し曲は4曲目のClouds Under the Moonです。美しいオーケストレーションから始まり、ヴォーカルよりも先に女声コーラスが歌い出します。当然前述したアコギのソロパートもありありで、14分近くかけて展開するというDsOのCarnal Malefactorにも通ずるような長尺曲です。好きです。付き合って下さい。これはもうぜひ聴いていただきたいのですが、このバンドの曲はネットにあまり上がっていない(bandcampやってないのかよ!)ので、仕方なくつべで公式がアップしている別の曲(同アルバムに収録)を貼ります。

 


Dionisyan Torment and Ecstacy [official video full HD]

週末でまた東京に行った。

銀座でのナンパの多さに圧倒された。する側もされる側も楽しんでいる感じでなんとなくいいなと思った。

その後新宿まで行き人間を見に行った。カップルに外国人のフリをして英語で話しかけるということをしていたら、カップルの女がcheapをチンポと本気で聞き間違えていた。本当にバカだけどチンポとcheapを聞き分けるスキルは歌舞伎町においては重要じゃないんだな。ゴールデン街の一角からは下手くそな椎名林檎のカラオケの声が聞こえて、改めて新宿なんだなと思った。

サタデーナイトの渋谷にも行った。かなり冷たい雨が降っており、さすがに皆帰ったろうと思ったけれどそんなことは無かった。特に目的のないコスプレ軍団の行進。自分も何か着ればもうすこし楽しめたのかもしれない。

当事者研究という言葉がありますが、今回のようにちょっとメタっぽい視点で歩くのではなく、自分も飲み会の一員として朝まで過ごすみたいな事をやってみたいなと思った。あと相席屋に行きたいな。

『ヨブ記』についてのメモ

ヨブ記』は旧約聖書に収められている物語のひとつであり、内容としては「神が信心深く裕福な暮らしをしていたヨブに非常に、非常に厳しい試練を与える」というものである。その内容は壮絶なもので、そこまでやるのか?という仕打ちがヨブを襲う。

しかしその内容が意味するのは神の全能性のような安易なものではなく、あくまでユダヤ教徒(+キリスト教徒)に対する信仰の問題である。

物語の中でヨブは「なぜ神はこのような仕打ちをするのか?」と幾度となく悩む。しかし38章からの神の返答は厳しいものだった。

わたしが大地を据えたときお前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。 ヨブ記38:4

それからというもの、神の厳しい返答が40章まで続く。それにヨブはこう答えた。

わたしは軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。わたしはこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません。 ヨブ記40:4,5

また42章にも

あなたは全能であり御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。…あなたのことを、耳にはしておりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し自分を退け、悔い改めます。 ヨブ記42:2~5,6

というように、完全な服従と言っていいような態度をヨブはとっている。ユダヤ教徒キリスト者でない者からすると(ひょっとしてその二者も)かなり神はサディストのように感じられるが、冒頭で言ったように要点はそこではない。この物語は最終的にヨブが神を信じる事を諦めて終わるのではなく、神を信じ続けて終わるのだ。最後の最後でヨブは救済されるのだが(ヨブ記42:12~17)、全く報われずともそこまで信じ続けたヨブの信心が最も重要なのだ。同じような事は新約聖書におけるイエスの受難の物語にも共通している。マルコによる福音書ルカによる福音書ではイエスは絶叫し、十字架から自分を降ろしてくれなかった神になぜなのか、と問うて絶命する。しかしそれまでのイエスの行動や人物から察するに、なぜなのかと問うている間も神に対する信仰心は持ち続けていたであろう。そしてその後に復活する……。

結局何が言いたいのかというと、「救われなさ」それ自体にこの物語の全ての意味がかかっているのだと思う。人智をはるかに超越した神の意味不明な行動、それでもなお神を信じる。それを経た結果として救済は待っている。信じ続ける。信心なくして救済はあり得ない。先述した神に対するヨブの悩みは「信じている神に対して疑問を持つ事は愚かであり、そんなことを考える暇があったら信じなさい」というようにとれる。そういった「人は信仰によって義とされる」的メッセージをこの物語は伝えたかったのではないだろうか。

 

また、物語中にヨブは「生まれてこなければよかった」というような事を度々言うのだが、同じような事をイエスはユダに対して「お前は生まれてこないほうがよかった」という感じで伝えている。その関連性についての疑問が生まれたので、今後はそれについて調べたいと思う。